日記
カポエイラ百科事典 vol.10
アペリード(ニックネーム)について
カポエイラでアペリードが普及しはじめたのは、カポエイラがまだ法律で禁止されていた時代に遡ります。
当時のカポエイリスタたちは、警察から身元を保護するために、本名を明かさずニックネームで呼び合っていました。
もし仲間の誰かが捕らえられた場合、本名を知らなければ、他の仲間が芋づる式に捕まることを防ぐことができました。
カポエイラは現在では完全に合法であり、身元を隠す必要はありませんが、アペリードの伝統は残っています。
カポエイラのアペリードは、その人の特徴や性格から生まれたもの、動物や自然現象や物語のキャラクターにいたるまで、幅広くあります。
通常ポルトガル語で名付けられますが、例外もあります。
現在、アペリードはバチザード(洗礼式)のタイミングで始めの帯と共に与えられるのが一般的です。
それは通過儀礼であり、グループの一員であることを象徴するものでもあります。
(コハダン大阪では、大人の帯からアペリードが付きます) ↓コハダンジコンタスの帯
このように、カポエイリスタにとってアペリード(ニックネーム)は特別な意義と重要性を持っています。
しかし、ブラジルではカポエイラだけではなく、より広い範囲でニックネームが個人の生活に密着している背景があります。
サッカー選手のニックネーム
エドソン・アランテス・ド・ナシメントは、ブラジル史上最も称賛されているサッカー選手の一人です。
しかし、ブラジル人の多くがブラジルを「サッカーの国」と誇らしげに呼んでいるにもかかわらず、その名はあまりよく知られていません。
彼は国内外で、ニックネームのペレとして知られています。
ペレだけでなく、ブラジルのサッカー選手の多くは、ニックネームで知られています。
ブラジル大統領のニックネーム
ニックネームは政治の世界でも広く使われています。
ブラジルの現大統領はルイス・イナシオ・ダ・シルバという名前でしたが、一般の人々やメディアにはニックネームのルーラで知られていました。
1982 年には、支持者が投票時に簡単に彼を識別できるように、法的に名前をルイス・イナシオ・ダ・ルーラ・シルバに変更しました。
クラウディオの電話帳
ミナスジェライス州の都市、クラウディオの住民たちは、電話帳についてある問題を抱えていました。
誰もがニックネームで呼び合うことに慣れすぎていて、本名がわからない人物が多過ぎたのです。
このことがきっかけで、エリカ・ザネット (通称マルチャ・レンタ) という女性が、住民のニックネームを収録した新しい電話帳を開発しました。「アペリスタ」と名付けられたこの電話帳は、毎年更新されています。
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このように、ブラジルでは、ニックネームは単なる呼び名というだけでなく、
個人のアイデンティティ、所属、功績を表す文化的な要素として深く根付いています。
カポエイラ百科事典 vol.9
今月の歌
♪Os arcos da lapa me faz lembrar
Me faz lembrar, Me faz lembrar♪
カリオカ水道橋、通称"Arcos da Lapa"
全長270メートルに及ぶこの橋は、18世紀半ばにリオデジャネイロのセントラルに建てられました。
当時、アーチ状の建造物の上部には都市へ供給する水が流れており、上水道として機能していました。
現在そのシステムは廃止され、水の代わりに電車が走っており、リオデジャネイロのシンボルとして多くの観光客が見物に訪れます。
また、カポエイラにとっても歴史的に重要な聖地となっています。
今回は、このアルコダラパ周辺の広場、ラパ広場とカポエイラの歴史について解説していきます^_^
ラパ広場で始めにカポエイラがひっそりと行われたのは19世紀の半ば頃でした。
当時はリオの都市開発が積極的に進められており、ラパ広場はその影響をはっきりと映し出していました。
広場周辺にはクラブやレストラン、商店が次々と軒を連ね、アートやダンスなど、文化的にも大いに発展しました。
しかし、同時に悪党の巣窟のようなエリアでもありました。
19世紀の終わり頃にはカポエイラギャング(マウタ)の拠点としても有名になっていました。
その頃のリオのカポエイラは、ギャングたちの喧嘩やストリートファイトの技術であり、音楽など文化的な側面はありませんでした。
また、法律によって禁止されていたこともあり、大っぴらに行うこともできませんでした。
しかし、20世紀中頃にカポエイラ禁止法が解かれると、徐々に大々的なホーダが開催されるようになりました。
特に1950〜1980年代はリオでカポエイラが最も発展した時代となり、ラパ広場はその中心地でした。
今月練習している歌は、大いに盛り上がっていた当時のラパ広場での記憶が歌われています。
しかし、文化として大衆に開かれたとはいえ、当時のラパのホーダはまだカポエイラギャングの色が濃く、かなり危険なものでした。
蹴りや攻撃が寸止めされることはなく、容赦なく振り抜かれるため、熟練者以外は見物するしかなかったと言われています。
90年代にはその色は薄れ、より大衆に受け入れられるようになりました。
今でも広場では定期的にホーダが開催されており、カポエイラの聖地として愛され続けています。
カポエイラ百科事典 vol.8
♪ No meu Rio de Janeiro, se minha memória não falha.
O Melhor Capoeira foi Manduca da Praia ♪
Manduca da Praia(マンドゥカ ダ プライア)は、リオデジャネイロのカポエイラの歴史において、伝説的なカポエイリスタです。
19世紀前半に生まれた彼は、背が高くがっしりした体格で、白髪のひげを生やしていました。
いつもきちんとした身なりをしていて、白いハットとゴールドの時計を身に着け、厚手のロングコートを着ていました。
そのエレガントな姿に周囲の人たちは感銘を受けると同時に、威圧的でどこか底知れぬ恐怖すらも感じていました。
今回は、8月に練習する歌のテーマにもなっているマンドゥカ・ダ・プライアについて解説していきます^_^
19 世紀後半のリオデジャネイロでは、カポエイラといえばギャングの代名詞でした。
パラグアイ戦争で徴用されたカポエイリスタは、戦場で活躍し英雄として帰還しました。
しかし、戦争が終わると行き場を失い、多くのカポエイリスタは裏社会へ流れていきました。
しかし、マンドゥカ ダ プライアはギャングの一員にはならず、地元で実業家となりました。
市場では魚屋を営み、週末には夜遊びに出掛けるなど、リッチな生活を送っていたのです。
また、喧嘩や当時禁止されていたカポエイラの練習で27 回逮捕されるといったアウトローな一面もありました。
何度も逮捕されたにも関わらず、刑務所に入ることはありませんでした。
彼は政治家や著名人のボディーガードの仕事もしており、有力者としてのコネを使うことで刑務所行きを免れていました。
マンドゥカはカポエイラマスターとしても異彩を放っており、警察や他のカポエイリスタとの数々の戦いで有名になりました。
敏捷で力強く、素手で複数の敵と戦うことができましたが、ナイフや棒、杖などの武器を使うことも得意でした。
しかし、彼の本当の武器は、その場で思考する並外れた能力で、そのおかげで、彼は対峙したほとんどの対戦相手を出し抜くことができました。
マンドゥカ ダ プライアの名を最も有名にしたのは、サンタナというポルトガル人の議員との戦いでした。
サンタナは腕っぷしが強く、棒術の達人としても知られていました。
議員として町を訪れたサンタナは、そこでマンドゥカ ダ プライアの噂を耳にして、彼に挑戦を申し込みました。
結果、マンドゥカがカポエイラの蹴りでサンタナを空中に蹴り上げ、勝利しました。
二人はそれ以降、生涯の友人となったといわれています。
数々の逸話を残し、無敗の強さを誇ったマンドゥカ ダ プライアですが、1877年に肺炎で亡くなりました。
生粋のマランドロ(トリックスター)だった彼の情報はあまり多くありませんが、それ故に人々の想像を掻き立て、伝説として今もなお語り継がれています。
カポエイラ百科事典 vol.7
♪Bom Jesus da Lapa ê
Bom Jesus da Lapa♪
今月練習している歌"Bom jesus da lapa"は、
ブラジル北東部バイーア州の小さな町ボン・ジェズス・ダ・ラパをテーマにした歌です。
この町はカトリックの巡礼地として知られており、ブラジル国内外から多くの巡礼者が訪れます。
Bom Jesus da Lapaは、「洞窟の善きイエス」という意味です。
18世紀頃、町の近くに大きな洞窟が発見され、その構造がカトリックの教会に似ていたことから、そう呼ばれるようになったと言われています。
この洞窟は大聖堂となり、ボン・ジェズス・ダ・ラパは信仰の町として発展していきました。
動画↓
https://youtu.be/CjijXJLUWiE?feature=shared
大聖堂ができて町に人の出入りが多くなると、カポエイラやサンバなどの伝統文化も飛躍的に発展しました。
現在では文化的な聖地としても知られています。
大聖堂周りの広場では、今でもカポエイラのホーダや練習が盛んに行われています。
歌のタイトルはカトリックに由来していますが、
現在では文化的な聖地への憧憬といった意味も込めて、多くのカポエイリスタによって歌われています。
カポエイラ百科事典 vol.6
【ポップミュージックとカポエイラ】
20世紀後半から、カポエイラはボサノバやブラジリアンポップに影響を与え始めました。
情報化社会となり、いまでは世界中のアーティストがカポエイラからインスピレーションを受けた作品を発表しています。
しかし、カポエイラをテーマにした音楽作品で最も成功したのは、
ボサノバの「Água de Beber :おいしい水」で、
1963年に発表されました。↓
https://youtu.be/KDPnk9eW4dc?si=nkygTWHHKYpgR-Jg
どこかで聴いたことがあるのではないでしょうか。
カフェなどでよくかかっていますね^_^
曲中、カポエイラは直接的に表現されず、あくまで暗示されています。
Água de beber,
água de beber,
camará ♪
当時、カポエイリスタたちは「Camara:(同志)」と呼ばれており、
「Água de Beber:(水を飲む)」という言葉がカポエイラの歌の一部(chula:シューラ)であることは、誰もが知っているわけではありませんでした。
しかし、それ以降はよりストレートにカポエイラを表現した曲が多く発表されます。
そんな中、
女性シンガーのナラ・レァオンは名曲「Berimbau:ビリンバウ」を発表。(1964)
↓
https://youtube.com/playlist?list=PLdmtkc-Us4Tohjp44JU9N8N_UIns_O2MD&si=EoGqwzDAm-lFGbi4
この曲が収録された彼女のアルバムは大成功し、今ではブラジリアンポップミュージックの始まりと考えられています。
リラックスするのにぴったりなので、
是非ゆっくり聴いてみてください^_^